『サークルクラッシャー麻紀』

第一回目の今回、紹介するのはこちら

サークルクラッシャー麻紀 (破滅派)

サークルクラッシャー麻紀 (破滅派)

 

 

私の友人の佐川恭一さんの『サークルクラッシャー麻紀』

という短編小説集です。

 

佐川さんは僕と同じ大学に同じタイミングで入学した同期なのですが、

在学中は全然お互いに存在を知らず、

知り合ったのはつい最近です。

書かれる小説はけっこう尖った感じですが、

ご本人はとても柔らかく話しやすい感じの人で、

僕の書き物にもよくコメントをくれます。

僕は小説のことはよく分からないのですが、

受賞歴を見るに、これから「来る」ことが期待されますね。

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今回の『サークルクラッシャー麻紀』には、

・『サークルクラッシャー麻紀』

・『ブス・マリアグラツィアの生涯』

『同好会長殺し』

の三篇ほかが収録されていて、

佐川さんのサークルクラッシュ文学の一つの到達点だといえるでしょう。

(※サークルクラッシュとは、女性に免疫がない男性の集団に女性が

  入ってくることで、恋愛関係のもつれが起こり、

  結果的に集団に機能障害が起こる現象を指す概念です)

未読の方のためにストーリーを紹介するのは控えますが、

佐川さんの作風の特徴はその疾走感で、

30ページぐらいの間で10年や20年が経過したります。

良い意味で勢いで読ませる感じが凄い。

個人的には、『サークルクラッシャー麻紀』の

おじさんになった後の部長と、『ブス・マリアグラツィアの生涯』で

突然激高するダレノガレのエピソードが特に良かったです。

万人に薦めることができる本ではないかもしれませんが、

アマゾンのあらすじを見て心当たりがあるような人、

ハマる人にはハマるでしょう。

 

で、以下は私が考えたことです。

 

社会学では――というより学問全般で基本的にそうだと思いますが――

誰かに何かを伝える際には、

基本的に何らかの形で「現実」に依拠した説明を行います。

だから、データとして扱う「現実」を恣意的に歪めることは、

科学的な態度とはみなされないわけですね。

もちろん、それらの「現実」が何の加工もされていない生の状態で

あることはありえないわけですが、

しかしできる限りそうあろうとするわけです。

 

しかしここで問題になるのは、データとして用いる「現実」が、

自分の言いたいことと完全に一致することはほとんどない、

ということだと思います。

たとえば何か極端なことを主張したい場合、

「現実」はたいていそれよりもマイルドにできているので、

そこから極端なことを主張するには、手続き上の工夫が求められたりします。

だから、学問という方法に立脚して何事かを伝えようとする論者は、

ある意味で、「現実」によってその自由を制限されているわけですね。

その制限こそが、

学問が「信頼」にたるとみなされている要因だとは思うのですが。

 

それに対して、フィクションの小説や映画、演劇などには、

自らの伝えたいことを、

その極限の形でもって表現できるという特徴があると思います。

もちろん、フィクションであっても、その表現手法にはたくさんのルールと

読み手の目線という制限があるので、

自由であるわけでは決してないのですが、

伝えたいことに対する表現の「過剰」が許されるというか、

控え目さと過剰さを恣意的にコントロールすることができるように見えます。

 

で、本の話に戻りますが、

佐川さんが『サークルクラッシャー麻紀』において、

その「過剰さ」でもって表現しているのは何か。

それは、ある種の男性が女性に向ける視線であり、

欲望なのではないかと思います。

たぶん、この本を読んで、こんな過剰な振る舞いをする

「クラッシャー」なんているわけないし、女性はこんな風には考えていない、

とかそういう感想を抱く女性はけっこう多いのではないでしょうか、

私は男性以外の性を生きてはいないので確証は持てませんが。

 しかし、そのような感想が出るとしたら、

その時点でもう佐川さんの試みは成功しているのでは、と思うわけです。

 そのような「偏り」こそが、

男性の欲望の戯画になっているというわけですね。

たとえば私のような人間が読むと、

ああ、たしかに大学生の頃、

サークルの可愛い女の子をそういう目線で見てたよなぁ、とか、

色々と思い出させられる点が多く、

共感を通り越して羞恥心を覚えました。

 

ところで、Twitterか何かで、佐川さんは「根暗な森見登美彦だ」

みたいな意見を観たことがあります。

たぶん、京大の若者が起こす一悶着を大袈裟に描いているという点で

森見登美彦的」だという話だと思うのですが、

私はその意見にはあまり賛同できません。

というのも、上で述べたように、佐川さんの小説ではある種の男性性が

主題になっていると思うのですが、

私が思う森見登美彦作品の特徴の一つは、

一般的に女性が嫌らしいと感じるような性的な視線が徹底的に

脱色されている点にあると思うからです。

(一見すると恋愛や非モテが主題になつているにもかかわらず!)

 

だから、佐川さんの小説が、(たとえば森見登美彦のように)

女性から一般的な支持を得ることは

今後もなかなか難しいのではないでしょうか。

 

でも、それで良いと、私は思います。

 

(了)